考える水草

「考える水草」主宰:水沼佑太の冒険の記録

水沼佑太 John Muir Trail へ行く 3

いざ出発。
 
今回は安い航空券を使っての旅となる。北京経由でサンフランシスコにつくのは約20時間後。長いけどこれも楽しみの一つ。チェックインカウンターで手続きを簡単に済ませる。
 
私は比較的荷物が小さかったことと、大切な山道具をロストバゲージしたくなかったので、機内に持ち込めないものだけ相棒のザックに入れてもらい預けた。そう、ストックをザックに突き刺したまま・・・。
 
 
飛行機に乗るとざわつきがすごい。修学旅行に混ざっているかのような賑やかさだ。友達が後ろの席にいるそうで、変わってくれないかと言う。もちろんいいですよ〜と席を譲った。お礼にゆで卵と揚げパンを頂いた。そんなに美味しくなかったけど、楽しかった!

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話を少し聞くと、この飛行機に乗っているおばちゃんたちは、多くが日本に住む中国の在留孤児だと言う。どんな生活だったんだろうなー。久しぶりの中国だそうで笑顔が溢れていた。
 
 
 
雨が少し降っていたが、無事、中国に到着。
雨が降っているので、ビニールを被せてくれていた。おい、どうする?と相棒が囁く。私はもちろん、着ましょーと頷く。手に持っているビニールが少ないぞ。ありゃ、今回は着れないかと一瞬さみしくもなったのだが、着れた!ビニールを着れた!うれしかったな〜。ちょうど私のすぐ後ろから新聞紙を配りはじめた。
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まぁなにより、到着した。
それぞれが入国手続きをして、相棒とはまた落ち合おうと別れた。
 
 
その後だ。問題が発生。
 
わたしのストックが手荷物には乗せられないという。え〜!日本で乗るときにカウンターで聞いたのに。同じ航空会社の乗り換えだからきっと大丈夫とタカをくくっていた。
 
別の部屋に連れられて、こう言われる。このストックを処分しますか?もしくは手続きをやり直しますか?と言われる。え〜、まだほとんど使ってない新品のストックを捨てる訳にはいかないし、せっかくイラストも書いてもらっているのに・・・。即答で、もう一度荷物を預けると答えた。電車で3駅戻ったところに入国手続きのカウンターがあるので、そこで手続きを済ませてくださいと言われ、特別な扉をパスコードを使って開けてもらう。そして閉められる。ガチャ、ドン。
 
めんどくせーし、よくわからないが、やるしかない。ストックを守るために。電車で移動し(広いな〜)、人を避けながら歩く(人多い)。もう短時間で中国を満喫。乗り換え時間も4時間あるから大丈夫だろうとまたタカをくくってしまった。
 
遅い。全然人が流れない。どんどん焦ってくる。なにしてんだおれ。ストックぐらい捨てればよかったかなーと悩む。しかし時既に遅し、それに、また同じシーンであっても同じ選択をするだろう。それくらい大切だ。
 
なんとか、自分の番が来て荷物(ストックのみ)を預けた。
よしゃー、あとは電車に乗ってもどるぞ。しかし、またそこにいくまでに人、人、人。エレベーターを3回見送った。
 
走れおれ!階段を走る。電車に飛び乗る、降りて走る。走る走る。ようやくフライト5分前に到着。めっちゃ焦ったー!これであとは飛ぶだけと思うも、そう上手くはいかない。雨が強くて、フライトが30分遅れるアナウンスが入った。
 
 
4時間どうやって暇潰そうかな〜、地図でも見ながらのんびりこれからのスケジュールを確認しようと思っていたのに、あっという間に消えた。もうフライト中は一度飲み物を取り逃がしてしまうくらいぐっすりでした。
 

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水沼佑太 John Muir Trail へ行く 2

日本を出発する日。
さぁいよいよいくぞ。
 
 
準備は万端であとはしっかり寝るだけ〜という夢のような形にはならなかった。何を忙しくしてたのかも覚えてないけど、前日ギリギリまで、1gでも軽くするぞと電子秤に全てのアイテムを乗せていた。集中して黙々とやっていた。
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準備の最中、行きたくて山へ行く訳なんだが、妻と離れるのは寂しい。そこで閃いた。ストックの手に握るてっぺんの部分に絵を書いてもらおう。それを見ると、辛くなった時、きっと心の支えになるだろう。
 
かきかきかき。妻は仕事が早い。あっという間に描いてくれた。ありがとう。
 
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なんとか山形を出発できた。いつもは夜行バスを経由して空港にいくのだが、今回はまだ準備物が揃ってなかったことと、何が起きるかわからないから新幹線で行った方がいいよ〜と妻のアドバイス
 
東京では、アルコールストーブの五徳を買った。腕時計が壊れてしまったので購入して行った。
 
以前使っていた時計は、2007年に初めて海外旅行をする時に母に買ってもらった時計だ。丈夫な時計だった。
 
また時計が必要になったら、アメリカに行こうと思う。
 
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水沼佑太 John Muir Trail へ行く 1

John Muir Trail から1年が経った。
めっちゃはやい。もう3年前くらいに感じる。
 
日本に帰国したら旅の記録をいっぱいまとめるぞーと思っていたのだが、山形でのおしゃべりや、温泉、飲み会、集落の行事、季節の仕事など、多いに楽しんでしまった。
日常の生活ってすばらしい!!! 
 
今回は覚えてるところをシンプルに書いてみる。娘の泣き声を聞きながら・・・
 
 
 
1年間仕事もほとんどせず、片っ端からアメリカのロングトレイル関係のブログやアメリカ国立公園や関連オフィシャルサイトを読み込むという生活をしていた。
その恩恵はあった。
 
 
ひとつは、インターネットの情報だけだとよくわからん。
 
やはり、実際に歩いたことがある人に話を聞きたいと思い、東京三鷹へ足を運んだ。会いに行ったのは、アウトドアギアの店・ハイカーズデポの土屋さん。
 
お店は小さな部屋が2つ。
 
一部屋は、こだわり抜いた登山アイテムが並んでいた。暖色の照明が部屋の雰囲気を温かくしてくれている。登山アイテムは、輸入されている商品やハンドメイドアイテムが多く、普段見かけないものが実際に見れる。見ていて楽しい。

土屋さんに、JMTに行きたい、と装備についてアドバイスを求める。すると、山形に住んでいるというと、JMTはじめアメリカ各地のロングトレイルを踏破している山形ロングトレイル協会の斉藤さんに会ったか聞かれた。私もインターネットで調べ、電話を試みたが繋がらずまだお会いできてないと伝える。
 
 
ザックはシンプルで軽量なものが良いとアドバイスを受ける。大きいものほど減量することができると。シュラフも頭なしのもので十分とのこと。徹底的にUL(ウルトラライト)であった。テントは完全に好みだそう。
特にアメリカでのハイキングは、基本的にはどこに寝泊まりしても良い訳だから、風のないところを選べば、強いフレームでなくとも対応できるし、デザインも、洋間に寝たいか和室に寝たいか、そんなもん。と教わる。たしかに。
 
ぐぐっと悩みが消えつつ、自分の頭の中で勝手にイメージが動き出した。
 
さらにここから30分以上ULハイキングについて講義を受ける。歩くということへ、熱量と知識に圧倒された。詳しくは土屋さんの著書など見てみてくださいね。
 
 
 もう一部屋は、テントやシュラフなどを体験できる部屋。その広々とした空間の隅に本棚が置いてあった。新刊書もいくつか置いてあったが、ほとんどが古い本。日本各地の山の歴史を知るような本でした。山へと向かった一人一人の物語。そんな文化的側面も大切に考えられているお店でした。
 
 ここで40ℓくらいの白いザックと、品のある青色のシュラフをGET!
 
 
 
日をあらためて。
 
今度は山形にあるゲストハウス・松本亭一農舎。ここに山形ロングトレイル協会のメンバーの一人がいらしたみたいで、斉藤さんの連絡先を紹介してもらった。実際にご挨拶したところ、今度山形ロングトレイル協会でのルート整備に参加しないかとお誘いを頂く。
 
当日、唐松観音の駐車場で合流。ここではじめて斉藤さんはじめ、山形ロングトレイル協会のメンバーの方とお会いした。道路の脇を超えて登山道に入る。歩きながらアメリカロングトレイルの話を聞けることに。
 
斉藤さんは持っていきたいものを持って行くスタイル。アイテムの知識がすごい。
 
JMTで一番大切なのは、歩くための許可証を入手できるかどうかだという。
もしそのシエラネヴァダ山域に興味があるのであれば、JMT以外にも近くに道はいっぱいあるから、とそちらをおすすめされた。たしかに、憧れのJMTではあるが、世界中からハイカーが訪れるようになって山の負担が大きくなった訳だからな。
 
 
いろいろとアドバイスを受け、悩みも増えたが、楽しみも増えた。

200円移住のはじまり

大学に入学し、日本各地で農村地域の研究や農業実習を行う農村調査部に入部した。

私は愛媛県伊方越集落で幼少期を過ごし、小学生の頃から集落人口が減るのを目の当たりにしていた。この集落をどうにかしたいと思い農村調査部で何かヒントを得られるのではないかと考えた。

 

日本各地の農村に行き、農業技術や農業に向き合う姿勢・考え、なぜ限界集落と言われている地域で住み続けているのかについて、寝食を共にし暮らし方を学びたいと思っていた。入部当初から卒業まで一番お世話になったのが福島県南相馬市小高町だった。

 

震災で、大好きな小高の農家さんたちが、全員、各地に散り散りになった。悲しかった。今後も小高を故郷のように訪ねたいと思っていた。毎年夏に行なっていた地域の人たちとのBBQが楽しみだった。大切な皆さんと話し合えていたはずの時間が消えた。震災や東北電力の事故に悔しさを覚えた。無しにはしたくなかった。小高と東北の力になりたかった。しかし、放射能の不安もあり福島原発半径30km圏内に行く勇気はなかった。

 

卒業間近。進路を考えていた。 震災後社会に不安と疑念を持っていた。このままみんなと同じように企業に就職して目の前の仕事に取り組むのが良いとは思わなかった。自分だけが楽しく美味しい暮らしは選択肢から消えた。そもそもスーツ姿は動きにくいだろうと思っていた。今こそ社会の転換期で新しい生き方にチャレンジする機会とも思うようにもなった。震災を悲しんでいる場合ではない。自分自身や東北の人の悲しみを払拭することを優先した。そして今までの社会の流れとは変えて新しい形で自由に暮らすことを決断した。

 

大学入学当初から、卒業後は自然豊かなところに住みたいと思っていた。どこでもよかった。しかし震災後は、できるだけ離散した小高の各農家さんを訪ねやすい距離のところ、放射能の影響が少ないところを条件に考えた。雪国にも興味があった。

 

友人から東京で開かれている移住フェアに誘われたが用事があって断った。友人に「俺に合いそうなところがあったらパンフレットもらってきて〜」と気楽に言っておいた。彼は律儀にオススメパンフレットを5つ持ってきてくれた。「佑太にあいそーな自治体あったよ〜。担当者の人も話が合いそう」と教えてくれた。パンフレットの中で一番ピンときたのが山形県朝日町だった。

海から見る四国一周

四国を海側からまるごと眺め、集落を記録する「海から見る四国一周」に挑戦します。
亡き祖父が残してくれた船を修理して航海に出発したいと思っています。
 
 
子供の頃から見て育った瀬戸内海。いつも目の前の海に憧れがありました。いつかは自分も船に乗りたい。そう思っていました。
 
 
目の前に見える島々はどこか遠い。
リアス式海岸の湾に沿って形成される集落。
海を前に山を背にしているここ佐田岬半島では、隣の集落は全く見えません。
 
 
自分の生まれた集落は既に限界集落。たくさんの思い出が残る中、家々が緑に覆われています。
 
高校卒業後10年ぶりに愛媛に帰り集落や町を歩きました。景色は変わりました。真新しい道路、草刈りの追いつかない荒れた土地がよく目につきます。友人や人々がいなくなった寂しさを感じています。
 
今回海から眺め集落を記録しておきたい、四国沿岸の風景を知ってもらいたいと思うようになりました。
 
四国一周できたら近所の人や友人と楽しく、パーティーをしたいです!